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五山の世界を行く


 住職 干坂げんぽう

 初めてのこころみとして樹木葬墓地の契約者の方に、本山団体参拝旅行のご案内を出した。観光地ではない京都五山の禅寺巡りが主となっているので、どれだけの参加があるかあやぶまれた。幸い、三十七名の参加となり団体が成立し、無事旅行を終えることが出来た。

 京都の五山といえば夏の風物詩、左右の大文字、妙法、舟形、鳥居の火の祭典を誰もが思い出す。かつて十年前まで、私が研究テーマとしていた禅宗官寺の序列を示すものとしての五山(十二世紀後半・鎌倉末期に始まる)を知る人はよほどの通であろう。

 鎌倉五山の序列は建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺とすっきりしているのに、京都では第一位・天竜寺、第二位・相国寺、第三位・建仁寺、第四位・東福寺、第五位・万寿寺のほかに、五山の上として別格扱いの南禅寺があり、序列の変動も激しく分かりにくい。

 右記の序列は、至徳三(1386)年に足利義満が制定したものだが、以降、多少の揺らぎがありながらも維持されたことは、そこに、何かしらの安定的な要素があったと考えられる。足利氏という武家政権が実権を握っていた官寺体制であっても、「格」というものに対する犯しがたい規範がその中に見て取れるのである。


相国寺承天閣美術館内の十牛図説明板前で
 足利義満は自ら創建した相国寺と祖父・足利尊氏による天竜寺を五山に加えるため、後醍醐天皇が五山の上に置いた大徳寺を格下の十刹の九位に落とすなど、大覚寺統(南朝)の息が掛かった寺には冷酷な仕打ちをした。しかし、亀山上皇(1249〜1305)が御建立なされた南禅寺は「濫觴が他と異なる」として、特別扱いするしかなかったのだ。

 同様に、藤原摂関家の九条道家(1193〜1252)による東福寺、足利氏の本家筋に当たる鎌倉幕府二代将軍派頼家(1039〜1106)による建仁寺、ともに高貴な血筋による創建の寺は五山から落とすことが出来なかったのである。

 このように十二世紀後半から十五世紀にかけて、天皇家、公家、武家間の権カと権威を巡る確執が五山の体制に反映されているので、日本史の面でも、五山巡りは興味深いテーマを提出してくれる。

 さらに、天竜寺の庭園と臨川寺開山堂の夢窓疎石(1275〜1351)国師の像を拝観すると、臨済禅と禅文化を公式に広めた国師の偉業と、人を包み込んで離さない穏やかな人柄が遥かな時間を隔てて思いおこされる。

 五山の寺を説明しながら回ると、今まで気づかなかった五山への新たな視点が浮かぶ。この十年間は、樹木葬墓地、地域づくりなどに忙殺され全く研究出来なかった。その埋み火が新鮮な空気に触れて燃え出すように、私の中で何かが動き始めた。

 「求心歓(ぐしんや)む処、即ち無事」(この解説は玄怖宗久著「禅的生活とちくま新書78頁参考)ということからいえば、研究への欲求は煩悩を新たに抱え込んだことに他ならず、ますます「無事」の境涯から遠ざかる一方だ。これも我が道の風流と開き直り、皆さんに理解して頂くしかない。至らぬ坊さんで心苦しいが、平成十六年度も変わらずご支援のほどお願い申し上げます。



樹木葬通信 2004年3月7日発行 VOL.18より




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