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ソメイヨシノに思う


 住職 干坂げんぽう

 今年の連休は間伐体験研修で忙しい毎日だった。研修の内容は皆さんがお便りを寄せてくださったので省略するが、初めての開催とあって手探り状態で進めざるを得ず、終わったときは疲労困憊の極みであった。

 世間は行楽一色、祥雲寺から悠兮庵に向かう途中、高速道路を見ると車が数珠繋ぎ状態で、運転手はさぞかし疲れるだろうなと同情したくなる有様、その点、当方は全く渋滞とは無縁のスイスイ走行,同じ疲れでも体を使っての疲労が中心なので健康そのものであった。おかげで研修終了2日後の東北大学病院での定期診察では、注意事項を守っているとほめられた。
心身のバランスが良いときほ心に余裕があるからであろうか、花や新緑への対応が、脳下垂体手術待ちの時とは全く異なっているように思われる。死と向き合っている切迫感がないためか、花をめぐる文章にも目が留まるようになった。

5月5日に行われた間伐体験研修の様子


 樹木葬墓地の実践から自然のあり方を多く学んだが、多様な生物が共存していることが本当の豊かさなのだと知ったことで、ソメイヨシノが数百本あるなどという数で圧倒しようとする景観には美を感じず、軽蔑感すら覚える昨今である。しかし、世人がこぞって楽しんでいるのを殊更非難するのも如何なものかと躊躇していたが、河合推雄著『森に還ろう─自然が子どもを強くする─』で、ソメイヨシノについての文章に出会い、我が意を得たりの感を強くした。「私はソメイヨシノに抱いている不安が何であるかに気がついて、ある不可解な深淵を覗きこんだときのような戦慄におののいた。ソメイヨシノは他の桜と違って、すべてクローンなのだと思いついたからである。(略)日本中のソメイヨシノはみんなクローンなのだ。そう思うと、不気味さに震えあがってしまった。」

 エドヒガンとオオシマザクラの交配で作った雑種のソメイヨシノは接ぎ木で増やすしかない。したがって、全てのソメイヨシノは元は1本の木を祖とするクローンなのである。ソメイヨシノだらけの状況を土屋晉山口大学名誉教授も厳しくとがめている。「靖国神社には、数百本のソメイヨシノがあります。境内にソメイヨシノがある宗教施設は、全国にたくさんあります。これらの宗教は、クローンを認めているというべきなのでしょうか。それにしても、人の助けがなければ命のリレーができないソメイヨシノは哀れです。」
(臨済宗妙心寺派発行の月刊誌「花園」平成16年4月号)

 花に思いをいたしているとき、ふと、中国長編小説の「紅楼夢」の名場面、ヒロイン林黛玉がうたう詩(花を葬る詩として著名)を思い出した。「一朝に 春が尽き 若きも老ゆれば 花は落ち 人は亡じ 両つながら(行方も)知らず」と結ぶ、屯の詩の花は桃の花である。国際化の時代、彼我の美意識を対比して、サクラにこだわる心情を冷ますことも必要なのではないだろうか。



樹木葬通信 2004年5月25日発行 VOL.19より




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