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わが師の思い出


東北大学教授・志村良治氏の没後二十年を記念する追想集「白雲遙遙」への寄稿文より

 住職 干坂げんぽう




メモリアルWにて
 梅雨空が戻ってきた六月二十日、某所で私は次のような挨拶をした。
 「道ばたではウツボグサが花を開き、ヤマボウシの花は次第に赤みを増し季節は夏に向かっています。墓地では、ミヤマナルコユリやバイカツツジが花期の終わりに近づき、リアシショウマが最盛期で、オヤリハグマ、オクモミジハグマ、ヤマジノホトトギス、カネアオヤギなどの芽は日ごとに大きくなり、本格的な夏を待っています。」

 また、翌日は九十名を引率するバスの車中で、マタタビの説明をした。
 「白い花が咲いているように見えるのは猫が好きなマタタビの葉です。花は小さくて目
立たないので、蜂など受粉を助ける虫たちを誘き寄せるために、花が咲く時期だけ、一部の葉が白くなるといわれています。」

 この文章の締切が近いこともあって、山野草の話をした後、三十年以上昔(正確な年だけでなく、五月の連休中だったか、夏休み中だったかも覚えていない)志村先生を祥雲寺にお招きし、墓地を案内したときのことが思い出された。

 山野草を大変愛でていると伺っていたので、墓地を案内、散策したところ、山野草を見つけては「これは貴重な○○だよ。」と興奮気味にお話になったことが強く印象に残っている。そのとき、私は山野草に全く関心を持っていなかったので、名前は覚える気がしなかった。このような出来事の後(十年位は経っていたか)住職に就任した。
 住職は使命として檀家を増やさなければならない。檀家を増やすためには、墓地が「売れる」状況が必要である。そのために、墓地内の杉を間伐し、日光が林床に差し込む明るい環境を目指した。整備を進めた結果、祥雲寺の墓地は見違えるような明るさを取り戻し、住職就任以来の二十年で、二百件強の檀家数を増やすことが出来た。

 一方、失うものも大きかった。墓地が明るくなったために、檀家はみすぼらしい墓石を気にし始め、次々と墓地を改修した。そのため、周囲にあった樹木が切り倒され、墓石だけが自己主張するような墓地景観になってしまった。
 工事で踏み荒らされ、乾燥化した土になれば、山野草が消滅することは容易に想像できる。したがつて、祥雲寺の檀家数が増え、新しい墓石が建立されることは、先生の好きな植物が減ることを意味した。私は山野草が減少することを気にしながら、二十年間、住職業を担ってきたのである。このような慚愧の念の積み重ねが、里山の自然を活かした「樹木葬墓地」の実践に向かわしめた。


樹木葬墓地のアジサイ
 名勝の地、厳美渓奥の里山を、墓地として使うことを認めてもらうために、単身、地域に乗り込んで住民説明会を行い獲得したのが「樹木葬墓地」で、そこには、かつて先生が感激した多様な山野草の自生している自然が残っていた。したがって、この墓地は、往昔の祥雲寺墓地の再現とも言えるのである。
 ここでの実践を始めて五年、日々、樹木、山野草などに触れ、多くの名前を覚えるとと
もに植生なども実践的に学んできた。このような経緯が冒頭の発言となり、先生の思い出と結びついたのである。「あのときの志村先生と今の私で山野草談義をしたら、どういう展開になるだろうか?」と。

 瑞巌寺の五雲軒老大師に参禅するため、木ノ下にあった聖和短大から青葉山の校舎に志村先生を迎えに行き、共に松島に向かったこともしばしばだった。回参の修行者という立場で先生を見ていた三十歳代前半の私は、「任運騰騰」という寒山の境涯にあこがれていた兄弟子・良哉居士の理想とするところを少しは理解していたつもりであった。
 しかし、それは錯覚であった。先生の行年にあたる五十七歳の時、私も命に関わる脳の手術をすることになった。幸い、手術は成功し、愚輩は先生より齢を重ねることが出来た。この体験を通して、「任運騰騰」を目指した禅徒「良哉居士」と山野草を愛でた学者・志村良治との繋がりが初めて見えてきたのである。 私も来年は還暦、師との思い出も大分彼方に霞むようになってきた昨今である。




樹木葬通信 2004年7月15日発行 VOL.20より




臨済宗 大慈山祥雲寺
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