目次 > 樹木葬通信 > 表現できないもどかしさ

表現できないもどかしさ


 住職 干坂げんぽう

 「文化の日」は晴れの特異日ということだが、今朝は昨夜からの雨がシトシトと降り続き、まさに秋霖という語がふさわしい日となった。天気予報では、日本海側の天気が悪いらしい。冬型の気候になるとこのような日が続くので、「いよいよ秋も終わりか」という感慨に浸りながら庫裏から祥雲寺の寺務所に向かった。

 寺務所に職員が到着するのは勤務時間の10数分前(8時50分頃)だが、知勝院に向かう職員との打ち合わせなどもあり、いつものように7時40分には祥雲寺の寺務所にいる必要がある。

 外に出ると雨なのに空が明るい。冬型の気圧配置になると、奥羽山脈が衝立になり、寒気による雪や氷雨は秋田側に降り、一関側には季節風にあおられた一部が飛んでくる状態になる。空が明るいということは、冬型が弱く、一関の市街地に雨雲があまり飛んできていないことを示す。つくづく頃川岳に守られている一関の自然の穏やかさをありがたいと思う。その上、須川岳の麓から緩やかにアップダウンを繰り返し、一関の市街地まで張り出している磐井丘陵は更なる衝立となり、寒気団の風から私たちを守ってくれる。


祥雲寺参道の紅葉
 今年は台風の被害もなかったことから、祥雲寺境内のヤマモミジは見事に紅葉している。寺務所の二階から見下ろす表参道脇のヤマモミジは特に素晴らしい。この鮮やかな赤に感動するにつけ、自らその素晴らしさを表現できないことにもどかしさを感じる。

 樹木葬のように、人真似でない構想を思い描き実践していくことは得手でも、子どもの時から、図画工作、作文、習字といった表現は全く苦手なのだ。大学で文学を学んでも表現力が身に付くわけでもない。唐詩を学べば、どうしても超えられない表現の前で佇むばかりだ。

 眼前のヤマモミジは杜牧(803〜852)の絶句「山行」の名句を思か出させる。

「車を停(とど)めて坐(そぞろ)に愛す
 楓林(ふうりん)の晩(くれ)
 霜葉(そうよう)は二月の花よりも紅なり」

 旧暦の二月は太陽暦の三月から四月にあたる。中国で、この季節の花といえば真っ赤な桃の花を指す。漢民族の魂を揺り動かす桃よりも、霜にあたったカエデの葉が紅いという、当時の詩人たちをアッといわせた色彩感覚、このような独創的表現は私にとって別世界だ。

 ハクチョウが悠兮庵の前を飛ぶ姿に感動しても、「青菰(せいこ-水草のマコモ)水に臨んで映じ 白鳥山に向かって翻る」(王維「もう川閉居」)を思い、青と白の対比の妙に感心するばかりだ。

 また、白と青(碧)との対比ということになると、杜甫の絶句「江は碧(みどり)にして 鳥は逾(いよ)いよ白く」という句を思い出し、若山牧水の句と異なり、杜甫詩では空を飛ぶ鳥の白さが碧の水面に映じているさまを表現している〜などと思い出すのである。全く散文的といわざるを得ない。

 何かを感じているのだが、表現において超えられぬ大きな壁があるようだ。宗教的な境地なら「説似一物即不中(せつじいちもくそくふちゅう)」といい、解き明かすことには限界があると突き放せるのだが
……
 闊達自在に表現している畏友・玄侑宗久師がうらやましく思われる晩秋の朝であった。




樹木葬通信 2004年11月20日発行 VOL.22より




臨済宗 大慈山祥雲寺
〒021-0873 岩手県一関市字台町48-2