目次 > 樹木葬通信 > キンコウカ

キンコウカ


 住職 干坂げんぽう

 「キンコウカ」という言葉が一瞬耳に入った。場所は行きつけの「ムギ」である。

  昨日(八月二十二日)は松島・瑞巌寺で修行中の次男が暫暇(ざんか、短期休暇)を取り帰宅したので、他の客とは顔を合わせないですむ座敷で、妻、次男などと較子を注文し語らっていた時のことだった。

 声の主は岩井憲一君とわかった。話しかけている相手は分からないが、どうも須川に登った時のことを話題にしているらしい。壁を隔てていることでもあり、その場は帰りしな、「樹木葬通信の締切は八月末だよ。」と声をかけて別れた。

参道わきのサワギキョウ(9月上旬)

 この晩は酒が効いて九時に就寝したが、その頃から降り出した雨は、午前二時過ぎに一時間雨量三十ミリ以上の強い雷雨となった。寝てもいられず、愛犬のマ口を小屋から玄関の中に移し、雨が弱くなった午前三時半頃、寺務所に向かった。
  寺務所の前に来ると、どこからか「すぃーちょん」と虫の鳴き声が聞こえた。

 未明の雷雨は、奥羽山脈を越えて流れ込んだ冷たい空気と、連日三十度を超える厳しい残暑で熱された空気との格闘でもたらされたことは明白だ。だから、いよいよ夏も終わりかと、布団の中で漠然(ばくぜん)と考えた後、もう眠れないと悟ったので朦朧(もうろう)とした情態で寺務所に向かった。虫の声は、そんなボンヤりしていた気分を一新させた。

 「秋声 離心(故郷から離れていて寂しさを感じている心)を撹(みだ)さざる無く」(「斉安郡中偶題二首其二」)と杜牧(とぼく)が詠うように、木の葉を落とす秋の風は、秋の声そのものであり、何となく寂しさを感じさせる。敏感な神経は五感を研ぎ澄ます。

 今年はじめて、八月上旬、須川(すかわ)に登った。お花畑ではキンコウカが須川の夏を演出していた。尾根近くの沢筋ではハクサンシャクナゲとコバイケイソウが盛りで、尾根ではお目当てのハクサンシャジンがタカネアオヤギと群落をなし澄んだ青色を朝露に濡らしていた。

 これらの夏を彩る花の他、ミヤマホツツジも咲き始め、山の秋到来を告げていた。その瞬間以来、些事(さじ)に忙殺され「秋」を忘れていた。

 初夏の訪れを実感させるのは六月下旬のカッコウの鳴き声だが、秋は紅葉に圧倒され、聴覚で季節を感じにくい。私も例外でなく、虫の声、鳥の声、風の音に鈍感になっていることを「すぃーちょん」は教えてくれた。

 鬼オといわれた詩人李貿(りが)は「桐風心を驚かし壮士苦しみ 哀燈絡緯(キリギリスの類)寒素(月のこと)に啼く。」(秋来)と、秋風の音に死を予感する。彼ほどの鋭敏さではなくとも、耳根で拾える世界を広めたいものだ。

 岩井君の「キンコウカ」という一言が須川の花々を想起させ、磐井川でつながる樹木葬墓地の広い世界に思いを馳せさせてくれた。小さな高山植物一つでも、世界の全てに関連しているはずだ。華厳経の「重々無尽の縁起」を思い返した未明であった。


樹木葬通信 2005年9月7日発行 VOL27より




臨済宗 大慈山祥雲寺
〒021-0873 岩手県一関市字台町48-2