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「浄土」の難しさ


 住職 干坂げんぽう

 平泉の遺跡群をユネスコの世界文化遺産登録にしようという運動が、岩手県の行政、マスコミを中心に盛んとなっている。県民所得が低い岩手県にとって、観光産業は極めて重要な産業なので、観光客増を狙って大変カが入っている。

 このようなカの入れ具合に反し、地元・平泉町を除き、周辺地域はそれほど盛り上がつていない。地域の財産だと言っても、「単に観光客増を狙っているだけでしょう。」と冷ややかに見ている人が多いのではないか。

 「寺門興隆」(平成十九年三月号)という住職向け専門誌の「読者の広場」に載った世界文化遺産に関する投書は誠に適切であった。 

 我々日本人の悪い癖でしょう。「世界文化遺産とという権威あるらしいレッテルがあると知るや、突然、我も我もと群がって、あそこももらえたんなら、こっちだって当然もらえるはずだと競うように声を高くする(略)世界遺産なんかに喜ぶようじゃ仏教も遺産、つまり過去のものと断定されたのも同じ。
 (同文を岩手日報八月二十七日付「いわての風」にも紹介)
 
 県民のいささか冷たい視線の他に、事前調査で指摘された「浄土思想」がどれだけ住民に理解されているかという課題に答えるために、岩手県教育委員会は、県内の小中高校で、平泉文化遺産の価値を学ぶ授業を取り入れるよう要請することにしたという。

 しかし、仏教と摂閑期の歴史を教えることなしに、「東北王」奥州藤原氏が十一世紀から十二世紀にかけて作りだした浄土庭園などを理解してもらうのは困難ではないか? 宗教を取り上げることに及び腰の国の指導に抵触しないのだろうか。

 平泉研究は、「柳之御所遺跡」の発掘調査により、学問的深まりを見せている。その上、隣接する衣川遺跡群の新たな発掘調査により、ますます、新たな知見が加わり、多くの論文が出されている。

平泉・毛越寺の泣き祭り

 「平泉の文化遺産」を授業で教えるというのは、大変困難な作業なのである。

 唯一、明確なことは、「中尊寺供養願文」に見られる平和への願いは、権カ安定を願う権カ者の権カ欲の反映でもあるということである。古くはカリンガ征服後にアショーカ王が各地に仏教を広めるために石碑を各地に残したことと通じるといえる。

 権カは「権」=借りのものゆえ、永続しない。藤原氏に依る平和は百年しか続かなかった。しかし、藤原氏の平和を祈願するための施設は、東北の誇るべき遺産として葛西氏、伊達氏が保護してきた。(葛西氏の場合、藤原氏の怨霊を恐れるという一面も強かったが)この面をしつかり踏まえることが大事である。

 江戸時代の民俗学者というべき管江真澄は平泉・毛越寺の泣き祭り(行列が来ると農民たちが大きな声をあげて哭したという。伝承では藤原基衡夫人の葬式を模しているというが、もともとは雨乞いの行事と思われる。)を天下の奇祭として記述している。このことは、農民たちが生活の拠り所として、宗教行事に協カしてきたことを示すものである。民の協カも平泉の仏教遺産を残してきた大きなカなのである。

 多くの人々によって文化財が維持されてきたことを学び、これから遺跡をどう生かすかを検討しなければならない。くれぐれも、上からの指導で文化遺産の価値を押しつけないで欲しいものだ。



樹木葬通信 2007年11月1日発行 VOL40より




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