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十年一区切り(じゅうねんひとくぎり)


 住職 干坂げんぽう

 「樹木葬墓地が十年目に突入」が今年最大のテーマである。
 十年間、一貫性をもって仕事をすれば大方は達成できるとの信念で、祥雲寺では二つの仕事を成し遂げた。

祥雲寺表参道
 住職就任早々、表参道の一部にあった貸家などを十年後には撤去し、表参道を旧時のように復活すると決めた。四軒の貸家に続く土地には、先住職時から引き継いだ総代長の経営する店の職員寮もあったので、総代長は寮の撤去に抵抗した。しかし、他の総代全員が私に同調したので、彼も撤去せざるを得なかった。

 貸家に住む人たちには、貸家の撤去については告げなかった。告げなくとも、自然に私の方針が伝わるし、十年という長い猶予期問があるので、少しずつ、転居してくれるだろうと考えたからである。四軒の方々は、十年を待たずに退去してくれた。こうして、殿様の菩提寺に相応しい長い表参道が復活したのであった。

 次の十年は、文化財の修復を目標にした。特に、地方では珍しい転輪経蔵(通称・六角堂)はかなり傷んでいた。この改修は健康に不安のある私にとって、最後の仕事となるだろうと言い聞かせた。
 
 この改修工事費の見積額は四千万円以上になった。この費用は、祥雲寺を開いた田村右京太夫建顕公(この方の江戸屋敷で浅野内匠頭が切腹した)の曾祖母・愛姫(伊達改宗正室)の三百五十回忌遠忌供養の寄付を檀家に依頼して賄おうとした。ところが、目標金額の寄付が集まらない。そのわけは、強制的な割り当てをせず、ハガキで寄付予定金のアンケートをとったことによる。檀家の自主性に任せるとどうしても寄付金額が少なくなるのは仕方がない。幸い、不足分を一関市が補助してくれたので、何とか改修できた。

 この二つの大きな事業は、無理をせずに時間を掛け、あるいは何とか良心的に物事を進めようとしたことが功を奏したのであろう。常日頃、「地域の繁栄あっての祥雲寺」と言い、地域づくりの活動をしていたため、六角堂では、行政もかなり頑張って補助金を捻出してくれたのではないか。

昨年11月の樹木葬墓地

 脳溢血、脳腫瘍と二つの病気を経験したものの住職歴は二十五年となる。こんなに続けられるとは思わなかった。望外の時間を与えられ、後継者にバトンタッチする施策を考えることが出来るのは幸せと言うべきである。
 
 知勝院も祥雲寺同様、十年間でなすべき日標を設定していたが、ほぼ成し遂げることが出来た。今後は一関での生態系保全に関わる施策、首都圏、北海道などにおける宗教活動を重視したい。これらの活動は、期限を切ることが出来ない活動である。

 東京では英俊副住職(住職次男)、一関では芳覚党副住職(住職長男)、荘憲禅士(住職三男)が法要などの宗教活動を補助してくれる。私がどこまで見届けることが出来るかだけが問題となる「十周年以降の知勝院」なのである。





樹木葬通信 2008年1月1日発行 VOL41より




長倉山 知勝院
〒021-0102 岩手県一関市萩荘字栃倉73-193